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「夕方らせん」1996.2.15
新潮社

若草のつむじ

「夕方らせん」(新潮文庫)

「この野原は、風の通り道なんだよ。
風がくるっと回るから、若草色のつむじができるんだ」
トウタの言葉であたりをみまわしたサリは、たくさんのつむじをみつけた。
「ほんとうだ。ここにもあそこにもある」
ふたりの眼下にひろがる野原。
野原をみわたす丘の上に立つふたり。
遠くから見ていただけのときは、わからなかった。

サリは斜面をぬうようにつけられた細道をくだり、トウタをふりかえる。
「ねえ、もう一回、あのこと、言って」
「何のこと?」
「あの、あなたがいつか思ったこと。そして私が泣いたこと」
「ああ」
トウタはサリのあとを同じようにくだってきて、すこしうしろを同じ速さで歩いた。
「ある日、雨だれをうけて、たえまなく打ち震える木の葉を見た時に、まゆ毛とまゆ毛の間にくっとしわをきざんだんだ。
なぜかはわからなかったけど、なぜかとても落ち着いてはいられなくなった。とても暗く、悲しい気持ちだった。けれど、強く熱い気持ちもあった。俺はこのままじゃいけないと思って、まず、とにかくやってみなくてはと思った。やりたいこととやってることのあまりの違いにうんざりしていたんだ。ずっとずっと。
 それで俺はすぐに、別れる人とは別れ、すてるものはすて、のこすものはのこし、あきらめるものはあきらめた。それらをすべてやりおえたあとに残った大切なものは、バッグ1個分の荷物だった。俺はそれを床に並べて、月あかりの部屋でじっと見た。それが今の俺のものだと思いながらよく見たら、それもどうでもよくなって、悲しくて、とてもやりきれず、心を変えることにした。
それから心を変えて、ずっとここまできたのさ。そしてそのことを君に話した時に、君が泣いた」
ふたりは大きな岩に腰かけて、黙って遠くに光るものを見ていた。
「私たち、これからは一緒ね。ふたりはいつも一緒でしょ」
「うん」

そして、ふたりは恋人同士といわれるふたりになり、いつも一緒にいた。
時々サリはトウタに質問をした。
「心を変えるのは、たやすいことなの?」
時々はトウタもサリにたずねた。
「君は、無垢な心を信じるか」

歌を聞いているといい気持ちになり、勇気もわいてきた。
ふたりは一生懸命働いた。
わきめもふらずに一心不乱に。働くことの意義も目的も考えずに、ただひたすら自分たちの力を、時間をつくし、その日の仕事が終わると、待ち合わせして一緒に帰った。体はくたくただったけど、心は澄んでいた。
途中の店で夕食の材料を買って、家に帰って作った。わずかな自由の時間である眠る前のひととき、窓から星を見たり、ベッドの中で本を読んだり、おしゃべりをしたり、とても楽しかった。

いろいろなことを特にあまり深く考えなければ、めんどうもそう起きない。時たま悲しいことが起こったり、イヤな気持ちにさせられたりもしたけど、あっさりと受け入れた。
受け入れる時はつらいけど、それもいっときだった。いっとき悲しんで、後はもう、考えなかった。そうすると、すぎたことは、あっというまに見えなくなった。何か大きなワナにからみつかれたような気になることもあったけど、それは幻だと思ったので、それも深く考えなかった。そうするといつのまにかワナは消えた。
とても速く時間は流れて、とてもゆっくりふたりは生きた。
人々は、たくさん、ふたりのまわりを通り過ぎていき、時にはふたりの近くまできて、話をした。

休みの前の日は、夜更かしをした。
トウタがコーヒーをいれて、サリのところへカップをもってきた。
そういう時は、普段あまりしゃべらないトウタもすこしよくしゃべる。
「人が生きていくのは、つなわたりのようなものだと思ってた。だからふたりで生きていくのは、もっとバランスがむずかしいと思ってた。でも、サリと一緒に暮らすのに、びくびくしないんだ」
「?」
「誰かと一緒にいると、いつもびくびくしてた。
好きな奴でも嫌いな奴でも、近くにいるのが恐ろしかった。
よりかかれてもひきずられても、バランスが崩れるから、堅いカラを作って、足元を守ろうとしてた」
「へえー」
「でも、サリはいいな。重さがないから、関係ないしな」
「どういうこと?」
「俺にしかわかんないよ」
「ふうん・・・ところで、トウタ。私たち、次のお休みにどっか行こうよ。ね、まるつけていい?」
「ああ、いいよ」
壁に貼ってあるカレンダーには、ふたりの予定が書き込まれていた。トウタは緑のペン。サリは赤いペン。次の日曜日のところに、サリは緑と赤で二重のまるを書いて、その中に、どっか、と書いた。

その日は雨だった。
トウタは床にごろんと寝転んで、足を壁の途中にくっつけたままじっとしていた。
サリは鏡をのぞいて髪をとかしていた。
「トウタ、雨だね」
「うん」
「どっか行く日だよ」
「どっかって、どこでもいいの?」
「うん」
「じゃあ、ここにしよう」
「雨だから?」
「ダメかな」
「いいよ。寒いしね」

トウタは時々暗い目をする。
気になることをやりかけたまま遊びにきてる人みたいだ。
「トウタ、どうしたの。落ち着かないの?」
「うん。ここにこうしてていいのかなって・・。
本当はもっと別のこと、何かしたいことがあったんじゃないかって思ってた」
サリは真面目な声で聞いた。
「そのしたいことをここではできないの?」
「うん。だめなことなんだ。
どうしてもひとりで出て行かなくちゃ。
そうだ、サリ。行くよ。俺、ちょっと行ってくる」
「どこへ?」
「わからない。けど、今、行こうと思ったとたんに、胸のつかえがパッととれたんだ。きっと、たぶん、もう行かなくちゃいけないんだ」
「トウタ・・」
「俺が行っちゃうと、サリはどうする?」
「帰ってくるの?いつか」
「帰ってくる」
「じゃあ、待ってる」
「よし、行ってくる」
トウタは、そしてドアを開けて出ていった。にっこりと笑って。サリに手を振って。
サリは、「そうか・・」と思い、さびしくもあるけどうれしくもあり、とりあえず昼食を作りはじめた。
「何かとてもおいしいものを作ろう」

トウタが帰ってきたのは4年後だった。
まっ黒に日焼けして、洗濯物のむこうからあらわれた。
「ただいま」と言った。
サリは走ってトウタのところまで出ていって、「おかえり」と言った。
トウタは、大人っぽくなって、すこしはしゃべるようにもなっていた。髪は潮風の匂いがした。厚い胸は、波の音がした。瞳は、夕陽をみている人のようだった。
「あんたって、こんなになっちゃったの」
サリはおかしくて、見るたびに笑ったので、トウタは最後には頭をこづいた。
「私は、私はどう、変わった?」
トウタはまぶしそうにサリを見ると、「変わらない」と言った。

トウタはそれからも時々でていっては、長く帰らなかったり、すぐに帰ってきたりした。家にずっといることもあり、そんな時は小さな庭に植物を育てた。
サリは手に技術をつけ、家でできる仕事をはじめていた。集中して仕事をして、残りの時間は家のことをあれこれやっていた。
明るい陽の下で、洗濯物をほしている時、サリがトウタに、
「結局、何だったの?」と聞いた。「トウタは何がしたくて、何をする人だったの?」
トウタは窓枠に腰掛けてぼんやりしていたけど、しばらくしてそれに答えた。
「俺は、いろいろな人を見るのが好きだ。俺自身は何にも生みだすことはできないけど、ただ心に何もないようにして人を見るのが好きだ。時々、とんでもない奴がいたりして。俺にできることといったら、それくらいだな。うもれてるイイ奴を見つけるのはうまいんだ」
「見つけてどうするの?」
「どうもしないよ。つつましく近づいて、こそっとほめるんだ」
「ふーん」
「そうするとさ、その、うもれたイイ奴の目からむこうに広がる景色が見えるんだ。広くて遠くてビュンビュン風が吹いてる。うもれたイイ奴たちはみんな、奥でその場所とつながってっから」
「トウタも、つながってるの?その人たちと」
「俺は、つながってないんだろう。俺にはあれがないから」
「あれって?」
「うーん」トウタはしばらく頭を悩ませて考えていた。
「あれって言うのは、つまり・・畑をたがやす鍬だな」
「?」
「それから、たがやす畑。鍬をもって生まれていたら、ずっと毎日、それで畑をたがやして、朝から夕方まで毎日働けるのに」
「その畑、私、もってる?」
「もってるさ」
「どこにあるの?」
「サリの毎日の中にあるだろ」
「鍬は?」
「鍬も」
「どこに」
「サリの中に」
「トウタにはないの?」
「うん」
「あんまりはっきりとはわからないけど、トウタにはないっていうのは、なんとなくわかるような気がする。トウタはそれがかなしい?」
「くやしいと思ったことはあったけど、もう乗り越えた。俺はこの俺を生かしてやんなきゃ気の毒だからな」
「トウタの畑って、さっきのうもれたイイ奴たちかもよ」
「そうだな。だから俺、放浪の旅ぐらしなんだよ」
「そうか、じゃあ、トウタもやっぱり鍬をもってるじゃない」
「ああ、そうだね。そうするとね」

日が暮れる前に、散歩にでかけようとサリが言い、トウタが従った。
晴れたりくもったりの一日だったけど、夕方になってまた陽がさしてきて、空の下の方だけが夕焼けの、不思議な空になっていた。
サリはトウタに会ってから、自分の中にあるおだやかな落ち着いた気持ちに気づき、いつもそれをたよりにした。
忘れかけてしまいそうな日々の中で、ふと思いかえし、流れの中に立ち止まって、「あの気持ち、あの気持ち」とつぶやくと、まわりからだんだん遠くまで、ゆっくりと波が静まっていき、間違わない方向の石が輝いて見えた。
それに足をかけ、次に飛び乗り、進んで行く。
困ったときは、遠くを見よう。近くばかりを見ていると、迷うことがあるから。

「若草のつむじを覚えている?」
野原をみわたす丘の上に立った時、サリが言った。
「今は冬だから、若草じゃなくてくり色ね。
くり色のつむじだね」
「おやじみたい」とトウタは笑った。
「かわいい外国の子供だわ」とサリはふくれた。
それからふたりはつむじを踏みながら一周して、港へおりた。
港はいきいきとした活気があり、あちこちで人がさわいでいた。大人も子供もあかりにてらされて、光っている。
長い堤防を歩いて、つきあたりのベンチにすわった。
「サリはいい子だね」とトウタが言った。
「どうしてそんなこと言うの」
「だって、そう思ったから」
「私を好き?」
「うん」
「私もトウタが好きなんだよ」
「へえー」
と、トウタがくすっと笑いながら意地悪な目をしたので、サリは、まただと思いながら黙りこんだ。
トウタは時々意地悪だから。いつも突然そうなる。
サリは、トウタの意地悪に対しては、とても強くなった。意地悪されて悲しそうにすると相手の思うつぼなので、意地悪だなと思っても気にしないことにする。そうするとつまんないみたいで、それ以上何も言わなくなる。
でもサリは、トウタの意地悪が好きだった。
トウタがいたずらな悪魔みたいな顔をして、とりつかれたようにしゃべりはじめると、次から次へと驚くようなひどい言葉がでてくる。
それを聞くのがおもしろかった。ほんの時々だったけど。
トウタの悪口は、なんだかいいなと思った。

トウタがまた出ていった。
トウタが出ていくと、サリはさびしいと同時にほっとして、楽しくなる。
早く帰ってきてねと思いながら、せっせと仕事をしたり、友達とおしゃべりをしたりした。

トウタがいつまでもこんな暮らしをしてたらいいなと思った。
トウタもサリの生活が気にいっていた。
まるでふたりは、他人同士のように尊重しあっているから、はじめてふたりを見る人は、知り合ったばかりのふたりだと思うかもしれない。

歌を歌っている時、サリが夕方、家の仕事をしながら気持ちよく口ずさんでいる時、どこか遠くでトウタが、木の下や波の上で、その歌を聞いているようだった。
トウタは遠くで聞きながら、目を閉じて、誰かが歌を歌っているなと思った。その歌声はおだやかだった。
トウタはサリに、サリはトウタに、知らず知らず力づけられていた。

何度目かの旅を終え、トウタが帰ってくると、サリの後ろから小さな子供がとびだしてきた。
トウタはびっくりして聞いた。
「誰、これ」
「ふふ」サリはおかしくてたまらないって顔で笑った。「トウタの子だよ」
「ホント?」
「似てるよ。そっくり」
「そうかな」トウタはこわごわと子供をのぞきこんだ。
「名前は?なんていうの」
「つむじよ」
「え?」
「つむじ」
「・・かわいそうに」
「あら、かわいいじゃない」
「こいつ、一生、つむじ、つむじって呼ばれるんだな。
おい、つむじ、こっちへこい」
「はじめて見たから恐がってるんだわ。ひとみしりするのよ」
その夜は、トウタがつむじを抱いてねむった。
ちいさい子供がめずらしいので、さわるのさえびくびくしていたが、やがてふたりともなれてきて、体をくっつけることができた。
それからは、トウタが旅から帰ってくるたびに、つむじが大きくなっているので、「こいつ、カレンダーみたいなヤツだな」とトウタは言った。

つむじはたしかにトウタとサリの血をひいていた。ちいさな頃から遠くを見たり、ねころんでねむってるような姿で考えこむのが好きだった。

サリとトウタとつむじの三人の生活という旅は、海に浮かぶ小舟のように波まかせだった。これがいいと思っていたから、それは充分に三人をしあわせにした。