「銀色ナイフ」

「銀色ナイフ」
2007.9.25  角川文庫
すごくいろいろ書いてますね。書きたかったんでしょうね。
「嫌うことも心惹かれることもエネルギーだから そう感じることによって何を得ているのか
その感情がどういう意味を持つのかをいつも考えてしまう
感情は 自分の輪郭を教えてくれる 今ここにいる意味をいつも問い続けていたい
真剣辛口エッセイ」

あとがき

私は日常生活では、いろんなことで怒ったり笑ったり泣いたりしていますが、そういうことが痛くもかゆくもないもうひとりの自分が、そういう自分をちょっと離れたところから眺めているのを感じます。
それは、たとえば、私が人生ゲームのコマで、まわりの人々もコマで、コマ同士がいろいろな出来事を繰り広げているけど、コマの私を動かす大きな私には、それはただのゲームでしかなく、もちろん真剣にゲームをするけど、それが終わればパタンとゲーム盤を閉じて、大きな私たちの生活にもどっていく、というような感じです。
だから、周りの人々への感情も、好きでも嫌いでも、それはそのコマの感情だし、周りのコマたちと繰り広げる出来事によって、なるほどこれはこういうことか〜、とか、結局こういうものか〜と、感心したり納得したり、参考にしたりしつつ、人というものを知っていってるような気がします。トラブルも苦しみも喜びも、このたくさんの人間、生きている人間っていったいなんだろう、ということを知るためのもののような気がします。

出来事の中では一喜一憂するけど、大きな私にとっては、痛くもかゆくもない。
出会う人たちとの感情的な交流も、出来事としては、その中で100パーセント体感するけど、それをするのはコマの私だ。大きな私はそれを、離れて見ている。
私がせっかくだから人生を楽しもうと思うのも、不幸を不幸とも思わないのも、人々のさまざまな反応が大げさだなあと感じるのも、そういう理由からだ。

眼下に、広くて大きくて精密なゲーム盤がある。家や商店があり、道路には車が走り、雨が降り、川は流れ、海がひろがる。鳥が飛び、魚が泳ぎ、犬が走る。花が咲き、草が生え、木が茂る。その中に、たくさんの人間のコマが生活している。
自分というコマを動かせるのは、自分だけだ。自分だけが、自分というコマを自由に動かせる。他のコマは動かせない。だったら、自由に、好きなように動かしたいと思わないだろうか。動かさず、じっとしていることもできるけど、こっちへ行ったらどうかなとか、この山の上に登ったらどうかな、トンネルをくぐろう、これ買わせよう、こんな仕事させてみよう、この人のとこへ遊びに行かせよう、あの人にちょっとちょっかいだしてみようとか、やらせてみるのはおもしろいと思うでしょう?何が起こるかわかんないよね。だからいろいろやってみるのです。おもしろいことになるかもしれない。失敗なんてもちろん平気。失敗なんて存在しないんだよ。
人は苦しむことでしか成長しないという。
そして成長するためにこの世に生まれてきたのだから。