宵待歩行

1991.10.30
角川文庫

宵待歩行

 


「宵待歩行」

 

霧にぬれて
ところどころの電灯で
足元をたしかめて
宵待草のともる野を行く

月の光を集めたような黄色だ
囁くようにさいている

もはや 手段は何もなく
打ち寄せる波のような日々

露にぬれて 悲しみに
ほほえむ僕に この夜空

あなたとも会えず
あなたとも会えずに

 

 

 

 

 

 

「森」

落ちてしまった
小石が水面に広げる輪
音もなく
音がひびく
音のない


うつむくたびに
そこに川がある
風もなく
風が吹く
風のない

 

「夜風の道」

もう忘れてしまったか
もう思い出しはしないだろうか
もうふりかえることはないか
もう君は

 

 

「時々」

「いちばん遠いもの」

時々君を見かける
そのたびに僕は
この世界も
まんざらではないなと
思ってしまうのだ

 

 

ここはあじさいが美しい
あじさいというと海の近くのお寺を思い出す
坂道から海が小さく四角く見えるのだ

ここから一歩も動かずに
心だけでどこまで遠く行けるだろうか
想像する額に風が吹きつける

遠い遠いところ
はじめは宇宙が浮かんだ
けれどもあまりに暗く
また はっきりとしないので
そこは断ち消えた

そして人が浮かんだ
いちばん遠いのは
確かに形があるものの中で
いちばん遠いのはあの人だ

「九月の足音」

「19の私」

夏が終わりに近づくと
毎年 九月がやってくる
ひたひたひたと空気中に
拡散していく九月のつぶ

また今年も秋が来て
枯れ葉の匂いがするだろう


九月のつぶが
あたりいちめんただよいだすと
サアッとすずしい風が吹いて
十月が外でまっていて
私たちを遊びにさそう
私たちは十月とも仲が良くて
背中にのって川原を走る

空中にのばした手足は
あかね色に染まり
草原は波となり
哀愁の鐘は鳴り響く

「19の時の私はまだ子供で
自分を不思議な子に見せるようにふるまっていたし、
それが私の魅力だと思っていました。」

このあいだきた手紙のこの文章が好きです。

 

 

「別れたけれど」

「二人の日常」

別れたけれど
出会った痕跡さえ残せただろうか
あの人の心に

もう忘れてしまってるかも知れない
忙しい人だったもの
言いたいこと言い切れず
別れたけど

別れてよかったと思う
ずっと忘れないだろうけど

おはようと言ってみる
この部屋に君はいない
思い出していた
二人の日常を

一緒にいることが普通だったのは
バラの香りの化粧水を景色の一部と見てた頃

二人でいることの日常は
心や体を侵食していた

甘く甘く

もういなくなった今
記憶の中でバラのつぼみがふくらむ

「人魚の夢」

「推理小説」

それは人魚の夢だった
一度だけ 泡になればすむこと
一度だけ 夢をみた後に

 

 

デッキの上にねころがって
サンサンと陽の光を受けとめる
映画の登場人物 ずっと昔の

そういう人たちが思い浮かぶ
昼間から赤いつめたいおいしそうなお酒を
のんでいたし
きれいな服を平気で砂でよごしていたね
犯人はつかまった

いつも意外な人だった

歌をうたうの
悲しい時は私
歌をうたえば
涙が止まることがあるから

「遠いところへ旅に出て」

「夏空」

遠いところへ旅に出て
夏の終わりに立ち向かう

目の前に
いっぱいに広がる空と雲
崖の上に立つ私
今年も季節はすぎていく

すぎていくものを思う時の
せつないような希望の甘さ
そしてまだ
何かになれる気がしていて
近い未来はあいかわらずでも
遠い未来はすばらしいはずと
海風を胸にすいこんでいく

もう一度 瞳をこらし
その空の彼方を
よく見れば
もう一度
深く息をすって
その空の一点を
よく見れば
夏空が破綻するところが見えるだろう

「丘の上」

「君の名を教え給え」

「慕情」にでてくるような丘の上に
新しいビルがたった
白くて四角いビルだった

それもやがて廃屋となり
今も丘の上にある
今は鳥たちの住み家になっている

ふりかえることができるくらい
すこし長く生きていると
物事の表面だけでなく 裏側の事情を知ってくる
あのいじわるな教官も 人の親ではあったのだ
他人の事情を汲みはじめてから
僕はしばしば意見を曲げる
ものわかりの悪い人たちの
役わりというのもあるのだろうと

そしてまた時がすぎ
僕らもまた 無意識にだれかに
同じ思いをさせるのだろう

「慕情」にでてくるような丘の上
今は遠くの方まで開拓されて
頭上では飛行機の爆音
まだまだ道は続き
行き止まることはない

ここからの景色が
思い出させてきたものは
来るたびに違う
その時どきで変わっていく

「慕情」にでてくるような丘の上
今は遠くの方まで開拓されて

君の名を教え給え
顔形や今だけの名ではなく
君のありかを教え給え

離れ離れになっても
この世で別れても
それをたよりに
たよりないこの世の中以外のところで
すぐに君とわかるような
君の名を教え給え